戦争によって日本の大都市や県庁所在のほとんどが米軍の爆撃を受け、町は焼け野原となり、主だった工場の大半は焦土と化した。終戦後のモノ不足とインフレは日を追うごとに深刻さを増し、町には闇市が堂々と軒を連らね、繁盛する時代となった。しかし多くの国民は食う食料も、働く職も、生産する設備・資材もなく、餓死者が多数でるなど悲惨で先行き不安の暗澹たる状況にあった。
昭和20年6月29日の深夜から始まったアメリカ軍B29による大空襲で、岡山市街地は一面火の海となり、街は焦土と化した。そして多くの尊い命が奪われた。母は、明け方、私を抱いて真っ赤に染まった東の空を恐ろしく不安な気持で見せたと聞かされた。我が家族は、父の実家(現在の岡山市新庄上)の田植えの手伝いに来ていてみんな無事であった。父は夜明けと共に危険をも顧みず取るものも取り敢えず、自警団の注意も無視して一目散に会社へ駆けつけたそうである。地獄絵図のような焼け野原の中を社員の安否と工場の被災確認のために夢中で走った。念願かなってやっと立ち上げた工場は、無残にも焼夷弾で全焼してしまっていた。幸いにも会社の社員と戦略物資生産強化のために香川県から働きに来ていた十数名女子挺身隊の人達はみんな無事で本当に安堵したと言っていた。不幸中の幸いであった。
日本は四季の彩りに恵まれ、そもそも農耕を生業(なりわい)としてきたので季節の移り変わりを大切にしてきた。一年のうちにいくつもの「晴れの日」を設定し、自然そのものに感謝してきた。
正月もそのひとつで、新年の神である年神様(歳徳神)が各家庭に降臨してくると考えられ、その年の幸運を授けて貰うために、家族で迎え・まつるしきたりだと言われている。
父の夢叶い、郷里で事業独立することとなり、私たち家族は岡山へ帰った。生誕の地、神戸での生活はわずか1年足らずの短いものであった。
当然私の記憶にはないのだが、神戸での生活では、生まれる時から付きっ切りで見守ってくれた、近所に住んで貿易や広告業を営んでいた父の二番目の姉夫婦に殊の外可愛がられたらしい。毎日我が家へ私を借りに来ては、自分の孫のように近所に見せびらかして歩き廻っていたという。
私は、第二次世界大戦の日本軍の戦況華々しかった12月の某日に、神戸市の桜口町(JR六甲道駅)でこの世に生を受けた。くしくもパールハーバー開戦のちょうど1年後であった。
両親はなかなか子宝に恵まれず、結婚してすでに6年の歳月が流れていたので、待ち焦がれていた男の子、この天からの「授かりもの」に大変な喜びようだったそうである。その後も兄弟姉妹には恵まれず、私は「ひとりっ子」として育てられた。そしてこれが「善しきに付け、悪しきに付け」私に与えられた「我が人生」となった。命名に当たって、戦時中の新聞の活字に躍っていた「正義」の言葉をとって、「常に正しく義を持って世の中を生きろ」との強い願いを込めて「正義:まさよし」と名付けたと父母から聞かされた。
サンクトペテルブルグは、今や自動車産業のメッカ、ロシアのデトロイトである。トヨタ、GM、現代自動車、スズキ、日産はじめ自動車部品メーカーの大手マグナが同じ工業団地に立地している。トヨタは既に操業を開始し、GMは工場建設中、その他の企業はこれから工場建設を始めようとしていた。政府としては、自動車メーカーの誘致が一段落したので、今後は部品メーカーの誘致を熱心に取り組もうとしており、既に部品メーカー向けの工場団地が造成されていた。
ロシア料理の折りに飲む酒はまずビールに始まって、次は必ずウォッカである。しかも冷凍庫から出したばかりの冷たいトロリとした無味無臭透明のウォッカ、これこそが最高なのである。度数40度のウォッカは冷凍庫に入れても凍らない。かつて、オランダで飲んだジェネバ、中国の貴酬茅台酒、メキシコのテキーラなどその土地、土地で飲む酒は気候風土と地の食に適しているためか誠に美味であったことを思い出しながら酒好きのメンバー達とグラスを重ねた。
八月下旬 サンクトペテルブルグを訪れる機会に恵まれた。この六月まで副会長を務めた日本自動車部品工業会の役員を対象とした自動車産業集積地サンクトペテルブルグと首都モスクワを巡るロシア視察団に参加させてもらった。
ロシアはTVの旅番組や報道番組で見たり人づてに聞いた程度の知識しかなく、私にとっては長年行くことを待望していた「まだ行ったことのない国」のひとつであった。期待に胸躍る思いとまだ見ぬ共産大国ロシアに対する不安感が交錯する旅立ちであった。